23日は父の誕生日でした。
前日まで忙しくてなかなか気の利いたプレゼントを用意する事が出来ず、
当日大型電気店に行きブラウンの髭剃りと樽2つ分のお寿司を買って、久しぶりに実家へ行きました。
父は髭剃りを大変喜んでくれ、「こんなにいいのを貰ってもいいのか?」と2度程聞き返してきました。
楽しい宴も済み帰宅途中、僕は車を運転しながら「もう一段良いものを買ってあげれば良かった」と少し後悔しました。
僕は店頭で少し悩み、妥当な商品を選択したのです。
妥当であるのでそれなりのものです。
ここでの問題(心の葛藤)は、もういっこ良いのをチョイスしなかった自分への後悔です。
今まで両親から受けた恩恵を考えたら、そこは妥協するラインではなかったと思いました。
多分僕が今からどんなに頑張っても、2人から受けた恩は返しきれないでしょう。
「してあげれるときは、してあげる」
これを肝に命じておかないと、大概は「今はしてあげられない」か「してあげれる時は自分の事ばかりしてしまう」のがセコイ人間の特性(笑)。
後悔チンポ立たずである!
今日から新しい髭剃りを使ってくれるであろう父の姿を想像すると、
何とも言えぬ感慨深いものがございます。
多分物凄く大切にしてくれるだろう。
そんなこんなで、沢山親孝行してあげたいと強く思う今日この頃。
近いうちに両親を旅行に連れていってあげたいな~と考えている。
母は飛騨高山へ行きたいと前々から行っているしな。
秋の紅葉時分なんかが良さそうだ。
とにもかくにも、父ちゃん母ちゃん!
どうか末永く元気でいてね!
父ちゃん誕生日おめでとう!!
いい週末でした。
※日曜日は連チャンのハードさからか、横になっていたのに突然の吐き気。トイレに駆け込み「オエー」とやると胃液が出てきました(笑)
弊社社長と出張帰りに新幹線にて「考える」って事について語った。
彼は哲学や考えると言う事を「心即理」と考えていると言う。
「心即理」とは、
人間は、生まれたときから心と理(体)は一体であり、心があとから付け加わったものではない。
その心が私欲により曇っていなければ、心の本来のあり方が理と合致するので、心の外の物事や心の外の理はない。よって、心は即ち理であると言う事らしい。
なるほど、感覚的に理解出来る話しだ。
「私欲」を感じた時、心のセンサーがそれを敏感に受け止めて「No!」を発しやすいのが僕の性格だ(笑)
そして「理」とは、
中国哲学の概念。本来、理は文字自身から、璞(あらたま)を磨いて美しい模様を出すことを意味する。そこから「ととのえる」「おさめる」、あるいは「分ける」「すじ目をつける」といった意味が派生する。理はもと動詞として使われたが、次に「地理」「肌理(きり)」(はだのきめ)などのように、ひろく事物のすじ目も意味するようになる。それが抽象化され、秩序、理法、道理などの意に使われるようになった。
とある。
哲学、考える 心 道 理・・・そして義もあるかな?
これらは切っても切れない関係だとなんとはなしに感じている。
そしてこんな事も平行して考えていた。
「考える前にやる」「失敗しない」と言う事。
思考の仕方、方法のプロセスは厳密に考えるならこうだ。
「対象を理解する能力すなわち悟性」があり、「その理解をもとに推論を行うのが理性」である。
これらは経験と思考(考察つまりは考える)行為から導かれていると考えられる。
加えてそれらの経験が生かされ、尚且つその人の「業」も影響したりするのか?
発する言葉に重みを与えていき、その重さによって影響力は大きくなったり、小さくなったりするのかもしれない。
こんな定義があるみたい
覚えて書く
考えるとは、「受けとめた情報に対して、反射的・紋切り型に反応する、いわゆる短絡反応的な精神活動ではない。設定した問題の解決、たてた目標の実現や達成のために、過去のいろいろな経験や現在得た知識をいろいろ組みあわせながら、新しい心の内容にまとめあげてゆく精神活動である。すなわち,思いをめぐらし(連想、想像、推理)、考え(思考、工夫)、そして決断する(判断)ということである」(『人間であること』)と定義している。
そりゃそうだよなと思う。
人間なんですもん。
「考える」と言う単語一つが存在する限り、
「考えないでやる」って事は、言葉の意味としては存在していても、事象としてはありえないと理解してよさそうだ。
またあるR社社長は、
「義」であると言う。
義は、儒教における主要な思想であり、五常(仁・義・礼・智・信)のひとつである。正しい行いを守ることであり、人間の欲望を追求する「利」と対立する概念として考えられた(義利の辨)。孟子は羞悪の心が義の端であると説いた。羞悪の心とは、悪を羞じる心のことである。
これまた明快かつ軽快な見解で好きだ。
「心即理」+「義」共に、他に対してどうあるべきか。
って事かと思う。
「どうあるべきか」は結果、後々他人にどう自分が映るのかって事かとも思った。
その為に今どうすべきか、どう答えるべきかと言う事かと思った。
その結果発する言葉に力が宿り、説得力やなんやらが生まれる。
勿論受けての心の持ちようも加味されてくるだろうから、
どちらがどちらと言う一方的な話しにはならないと思う。
ただ物事にはきっと「真理」がある。
先に出た「理」の親玉みたいなものだろうか?
真理(しんり)とは、歪曲や隠蔽や錯誤をすべて排したときに明らかになる事のありようをいう。本当のこと、また本当であること。
ギリシア語 αλήθεια(aletheia) ラテン語 veritas 英語 truth ドイツ語 Wahrheit サンスクリット satya
真実と概ね同義であるが、真理というときは、統制したり秩序化したりする原理としての側面が強調される。
現実や事実と異なり、真理は妨害・障害としての錯誤・虚偽を対義語としており、露わにすること、明らかさ、隠れなさをニュアンスとして持つ。この観点からいえば、他のものと取り違えられもせず、認識の過程で歪曲されもしていない、ということが意味的な核心にある。
この「隠れなさ」という意味はアレーテイアとの関係でハイデッガーによって強調された。またデカルトの明晰判明という直観主義的な基準もこの点に関連する。
なお宗教や神秘主義などでは、現象を支配する根本原理という意味合いで使用されることもある。真実性や真偽にかかわる認識論的な意味はなくなるわけではないが、この用法のときは殆ど意識されない。
同様に宗教や芸術、道徳などで、信念や感動の原因や対象であるという意味合いでも用いられる。この場合、表面的な現象や心理を支配する内的な、奥深くに隠された原理という意味になる。
>「信念」や「感動」の原因や対象であるという意味合いでも用いられる。
信念と言う言葉が出て来た。
僕はこれをポリシーやプライド、尊厳だと解釈している。
尊厳とは社会関係の中での自由な試行錯誤の積み重ねで得られる自尊心だとする尊厳観があるようだ。
「自尊心」
自尊心(じそんしん)は自尊感情(じそんかんじょう)とも言い、自己の存在や在り様を尊重(大切に思う)する感情のこと。
これを聞いて陳腐だが思い出すのが、
「自分を大切に出来ない人間は、結局は他人も大切に出来ない」。
つまりは「どうでもいい」って答えがこれに該当すると感じている。
心即理、義、などなどが正しく(この正しさも曖昧だが・・・人それぞれと言われればそれまでだ)あり、それを持って自尊心を大切に出来たら素晴らしい事だと思う。
色々な言葉が出て来た。
冷静に考えたい言葉が多くて勉強になる。
人は考えれる。
考えずにしている事、出来る事は、
そもそも出来る事であり、何も考えていないのではなく、そこまで生きてきた経験だとも言える。
つまりは経験の質や量で「考えずに出来る」=「考える前に動ける」って事を肉体にインプットしているにすぎないのではないか?
よってその経験やらがプアなものなら、その考えずにおこす行動もプアなものとなり、引いてはその経験から発せられる言葉にも力がこもらない。
経験はどんなものでも経験としてもいいし、経験しとけばいいと思う。
人生で壁が立ちはだかったりした時、
ステージを変えるのも良いし、踏みとどまり自分を鍛えるのも良い。
どちらも経験だろう。
その一つ一つの経験を生かして、
僕はより質の高い経験でもって、自分の考えを高め、家族や友人や社会に対して誠実でいたいと思う。
大野勝彦さんと言う方が言っている、(これまた親友が紹介してくれた、両手の無い画家さん)
「大切な人が喜ぶことをするのが人生ぞ
時間がなかぞ・・・時間がなかぞ・・・」
投げやりになんかなれない、どうでもいいなんて言えない!
折角なんだ、最高の人生にしてやる!
そんな話しをしながら道中を過ごした。
有意義な時間であった。